モーツァルトの生涯とは?多くの名曲をうみだした天才音楽家!

モーツァルトが作った音楽は、
癒しや胎教の曲として、絶大な人気を誇っています。


私が一番最初に、
モーツァルトの曲に触れたのは「きらきら星」です。


誰もが子供の頃、保育園や幼稚園などで、
一度は歌ったことのある曲ではないでしょうか?


「七夕」の定番曲ですよね。


そんなモーツァツトの生涯を取り上げます。




モーツァルト(1756-1791)

『フィガロの結婚』『魔笛』『トルコ行進曲』など、
多くの名曲をうみだした天才音楽家。





4歳で作曲した天才

世界の音楽会には、天才といわれる人がたくさんいます。



モーツァルトは、そのなかでも、
もっとも幼いときから、すばらしい才能を発揮した人でした。



しかし、35歳の若さでまずしさと病気にたおれ、
死後、その墓地さえ不明になってしまった生涯は、
けっして、幸せではありませんでした。



ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、
1756年にオーストリアのザルツブルグで生まれました。


は、
ザルツブルグの町にある宮廷楽団でバイオリンを弾き、
作曲にもすぐれた才能をみせた音楽家です。



モーツァルトは、3歳のころから、
もみじのようなかわいい手で、ピアノを弾くようになりました。



ある日、
ナンネルとよばれている5歳うえの姉マリア・アンナが、
父からピアノを教わっているのを見ていたモーツァルトは、
姉の練習が終わると、
自分にも弾かせてくれるように父にたのみました。



まだピアノなどひけるはずがないと思った父は、首を横にふりました。



でも、腰かけによじのぼったモーツァルトは、
まだ習ったこともないのに、
さっきナンネルがおそわっていた曲を、ほとんど間違いなく弾いてしまいました。



父は目をまるくしました。
ナンネルも驚きました。



「よし、この子を、きっと大音楽家にしてみせるぞ。」



父は、モーツァルトに、
つぎの日からピアノを教えることを約束しました。



やがて4歳になったモーツァルトは、
自分の心のなかで、自分の音楽を考えるようになりました。



そして、1年後には、
コンチェルトを書き、またもや父をびっくりさせました。



驚くはずです。



コンチェルトというのは、
ピアノやバイオリンなどの独奏者オーケストラが同時に弾きあう
むずかしい曲なのですから。



しかも、その曲は、
おとなの作曲家でもなかなか作れないほどのものでした。



同じ年に、こんなこともありました。



父が、家で音楽会を開いたときのこと。



ふたつのバイオリンと、ひとつのビオラで演奏が始まり、
やがて1曲が終わると、
買ってもらってまもないバイオリンを抱えたモーツァルトが、



「ぼくも、いっしょに弾かせてちょうだい。」


と言いだしました。



父は、少しこわい顔をして反対しました。



でも、バイオリンをひいていたおじさんの許しがでて、
モーツァルトが弾きはじめると、
おじさんは、いつのまにか、自分の手をやすめてしまいました。



モーツァルトが見事に、弾きはじめたからです。



「これは、とても信じられないことだ。
バイオリンはまだ、いちども教えたことがないのに。」



父は、
感激のあまりに、目に涙をいっぱいためて叫びました。



音楽会に来ていた人たちも、いっせいに、驚きの声をあげました。



そして、天才モーツァルトの名は、
またたくまに町じゅうにひろまりました。


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馬車でヨーロッパ演奏旅行

「ふたりの子どもの名を、もっとひろめよう。」

父は、モーツァルトが6歳になったとき、
11歳のナンネルもつれて、馬車で、演奏旅行に出かけました。



ふたりの子どもの演奏は、どこへ行っても大成功でした。



オーストリアの首都ウィーンでは、金の馬車で宮殿に招かれ、
モーツァルトは即興で美しい曲を作ってみせて、大喝采をあびました。



「キーが見えないようにして、ピアノがひけるかな。」



皇帝にこういわれると、キーに布をかぶせて、
ひとつのくるいもなく名曲を弾き、人びとの目を見はらせました。



でも、このときだけは、心のなかで皇帝をひそかに憎みました。



音楽を心から愛するモーツァルトは、
音楽をしんけんに聞いてくれない人は、
たとえ皇帝でも、腹がたってしかたがなかったからです。



わずか6歳で、うでも心も、
おとなに負けないりっぱな芸術家になっていました。



4か月ぶりでザルツブルグへ帰ると、
演奏旅行の成功のおかげで、父は宮廷楽団の副指揮者にとりたてられました。



すると、父は、
こんどはヨーロッパじゅうの大演奏旅行を計画しました。



ドイツからフランスへ、
そしてイギリスからオランダへ、家族4人の旅は、3年半もつづきました。



何百回もの演奏は、いつもアンコールがさけばれました。



とくに、小さなからだのモーツァルトは、
どこへ行っても、その天才をたたえる声がたえませんでした。



この旅行で、
モーツァルトが演奏会の成功よりも、もっと嬉しかったのは、
各地ですばらしい音楽家にあい、すぐれた音楽の勉強ができたことでした。



「すばらしい。評判どおりの天才だ。」



どの音楽家も、
腰をかがめてモーツァルトの小さな手を、しっかりにぎってくれました。



そして、これがなによりも大きな励ましになり、
演奏のかたわらで勉強をつづけたモーツァルトは、
イギリスにいるときに『交響曲第1番・変ホ長調』を作曲しました。


ピアノ・ソナタも作りました。



9歳の子どもが交響曲を作曲したことは、
世界でも初めてのことでした。



しかし、旅行は、
幸せせなことばかりではありませんでした。



オランダで、モーツァルトは腸チフスにかかり、
100日以上もねこんでしまいました。



高い熱がさがらず、命が危ういときさえありました。



乗りものといえば馬車しかない時代の旅行は、
ほんとうに、大変つらいことでした。





長い合唱曲をいちどで暗記
長いヨーロッパの旅から帰ったモーツァルトは、
12歳で、宮廷楽団の楽長になりました。



そして13歳で、こんどはイタリアへ演奏旅行へ行き、
ローマ法王から「黄金の拍車の騎士」という称号をもらいました。



このとき、ローマの人びとを、あっと言わせたことがありました。



キリストが生き返ったことを祝う復活祭の夜、
教会で『ミゼレーレ』という長い合唱曲を聞いたときのこと。



家に帰ったモーツァルトは、
たったいちど聞いただけのその曲を、少しの間違いもなく五線紙に書きとりました。



そして数日後、音楽会で、
こんどは自分が歌ってみせて、人びとを驚かせました。



『ミゼレーレ』の楽譜は、
その教会にたったひとつだけしかないものでしたから、
モーツァルトが曲を覚えてしまったことは、
どうしても信じられないことだったのです。



やがてイタリアへきて2年目、
歌劇の勉強を続けた14歳のモーツァルトは、
自分でも『ミトリダーテ』という歌劇を作曲しました。



そして、劇場で上演されたときは指揮棒をふり、
満員の劇場に拍手の嵐をまき起こしたのです。



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「よし、もっとすばらしい歌劇を作ってみせるぞ。」



モーツァルトは、拍手につつまれて誓いました。



天才モーツァルトは、
けっして自分の才能におぼれてしまうことはなく、
頭のなかでは、いつも新しい曲のことばかり考えていました。



イタリアから帰ると、演奏よりも作曲に熱中しました。



そして、15歳から20歳までの5年間に、
130曲ちかい交響曲や協奏曲やバレエ音楽などを作曲しました。



ところが、この頃から、モーツァルトの不幸が始まりました。



12歳のときに、
宮廷楽団の楽長にしてくれたザルツブルグ宮廷の大司教が亡くなり、
そのあとにきた新しい大司教は、音楽に理解がないばかりか、
モーツァルトの才能も認めようとはしなかったからです。



「理解のない人のところで、仕事をするのはいやだ。
 もっと自由に演奏したい。もっとのびのびと作曲したい。」



21歳になったモーツァルトは、
父と姉に別れ、母を連れてパリへ出発しました。



でも、パリでの生活は、1年も続きませんでした。



すっかり大人になった天才音楽家を、
パリの人びとは、もう、あたたかくは迎えてくれず、
モーツァルトは、たちまち生活に困ってしまいました。



そのうえ、そまつな下宿で、
やさしかった母を失ってしまったのです。



モーツァルトは、母の遺骨をだいて、
さみしく、ザルツブルグへ帰りました。



そして、仕方なく、また宮廷楽団の楽長にもどりました。





苦しい生活のなかで美しい音楽

それから3年ののち、
やはり宮廷楽団の仕事に耐えられなくなったモーツァルトは、
ふるさとを離れて、ひとりでウィーンに住みつく決心をしました。



しかし、ウィーンでの生活は、パリよりも、もっと苦しいものでした。



この時代は、作曲や演奏だけでは収入が少なく、
有名なハイドンやバッハでさえも、
宮廷や貴族や教会につかえて生活をしていました。



でもモーツァルトには、つかえるところがありませんでした。



26歳で、
ドイツの作曲家ウェーバーのいとこのコンスタンツェと結婚してからは、
たのまれれば、どんな曲でも書き、
どんな演奏会へも出かけて、働きつづけました。



それでも、収入が少ないうえに、
妻のコンスタンツェがお金にだらしがなかったため、
家のなかはいつもまずしく、
何日も、水とパンだけで過ごすことも、少なくありませんでした。



「まずしさに負けるものか。わたしには音楽がある。」



モーツァルトは、
生活の苦しさと闘いながら、五線紙にむかいつづけました。



そして、尊敬するハイドンにおくった『ハイドン4重奏曲』や、
歌劇の名曲『フィガロの結婚』『ドン・ジョバンニ』などを、
つぎつぎに作曲しました。



「美しい音楽だ。音楽で書いたすばらしい劇だ。」



ふたつの歌劇が上演されると、
劇場には、天にもとどくような大きな拍手が起こりました。



ところが、その評判は長つづきしませんでした。
モーツァルトの才能をねたんで、かげで悪口をいう音楽家がいたからです。



ただ、この歌劇の成功のおかげで、
ウィーンの宮廷作曲家に加えられ、
わずかでしたが年金をもらえるようになったことは、幸せでした。



しかし、
宮廷作曲家に選ばれたことを知らせる父は、もう、いませんでした。



『フィガロの結婚』が上演されてまもなく、
天才モーツァルトを育てた父は、
わが子が見舞いに作ってくれたふたつの4重奏曲を耳にしながら、
息をひきとっていったのです。


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さみしく共同墓地に

32歳になった大音楽家の生活は、ますます苦しくなるばかりでした。



体をこわした妻を医者のすすめで温泉へ行かせるときは、
質屋からお金を借りなければならないほどでした。



でも、家でひとりぼっちになっても、
またパンを求めるお金がなくなっても、
モーツァルトの頭のなかにある名曲の泉は、
けっして枯れてしまうことはありませんでした。



それどころか、泉の水はますますあふれ、
この32歳のときのわずかな2か月の間に、
モーツァルトの三大交響曲といわれる、
『第39番』『第40番』『第41番ジュピター』を書きあげました。



第39番「白鳥の歌」ともよばれ、
澄んだ空に白鳥が舞うような美しい曲です。



第40番は、
のちにシューベルトが「天使がうたっているようだ」とほめたたえた、
心やさしい曲です。



第41番はローマ神話の天の神ジュピターの名のとおり、
きらめく光に満ち溢れています。



しかし、このころから、
モーツァルトのからだは、しだいに弱りはじめていました。



やがて世界最高の歌劇とさえいわれる
「魔笛(まてき)」の作曲を終えたときには、
モーツァルトは、自分のからだに死を感じるようになっていました。



ある日のこと、モーツァルトの家に、
黒い服を着た、やせた男の人がたずねてきました。



「レクイエムを書いてください。お礼はいくらでもいたしますから。」



男は、これだけいうと、
名まえもつげないで消えるように帰って行きました。



レクイエムというのは、
死んだ人のたましいをなぐさめる曲のことです。



「このレクイエムが、さいごの曲になるかもしれない。」



黒い服の男を、なぜか、
自分の死の使いだと思い込んでしまったモーツァルトは、
なんども倒れながら、
全力をふりしぼってレクイエムの作曲に取りくみました。



しかし、もう少しというときに、ついに力が尽き、
残りの作曲を弟子にたのむと、
1791年12月5日、天才音楽家モーツァルトは眠るように天国へ旅立ちました。



雪が舞う寒い日の葬式には、わずかな人しか集まりませんでした。



そして、なきがらは、
貧しかった人たちばかりがほうむられている共同墓地に、
投げ捨てるようにして埋められ、
やがて、その場所さえわからなくなってしまいました。



それは、天才音楽家にさいごにしては、あまりにも、みじめなものでした。



モーツァルトが、
35歳のみじかい生涯のうちに書きあげた曲の数は626曲、
そのひとつひとつが、小さな子どもの心にも、
また、寂しい心にも、優しくささやきかけてくれます。


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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの代表曲

オペラ

  • 「後宮からの誘拐」

  • 4大歌劇
    「フィガロの結婚」
    「ドン・ジョヴァンニ」
    「コジ・ファン・トゥッテ」
    「魔笛」




宗教音楽

  • 大ミサ曲「レクイエム」





交響曲

  • 「第25番ト短調」

  • 「第29番イ長調」

  • 後期6大交響曲
    「第35番二長調(ハフナー)」
    「第36番ハ長調(リンツ)」
    「第38番二長調(プラハ)」
    「第39番変ホ長調」
    「第40番ト短調」
    「第41番ハ長調(ジュピター」




セレナード

  • 「第13番ト長調(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)」




メヌエット

  • 「第17番ニ長調」




ピアノ協奏曲

  • 「第20番」「第21番」「第23番」「第24番」「第26番」「第27番」




管楽器のための協奏曲

  • 「クラリネット協奏曲」




弦楽四重奏曲

  • 「ハイドン・セット」




弦楽五重奏曲

  • 「第3番」

  • 「第4番」




その他室内楽曲

  • 「クラリネット五重奏曲」




ピアノソナタ

  • 「第9番」

  • 「第11番(トルコ行進曲付き)」



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