孔子の生涯とは?平和と人間の尊重を説いた人

2014.1123_孔子_yjimage

孔子(前551-前479)

国と国、人と人との対立が深まる時代のなかで、平和と人間の尊重を説いた人。





3歳のとき父と死に別れて

元気のない男に、老人がたずねました。

「どこか、からだが悪いのですか?」



すると、男は、悲しそうなこえで、答えました。


「いいえ、からだは、どこも悪くはありません。

 自分の力がたりないのか、くやしくてしかたがないのです。
 そのうえ、あやまちを、おかしてしまいました。」



これを聞いた老人は、
男の目をみつめながら、しずかに口をひらきました。



自分に力があるかないかは、
 ほんとうに全力をつくしてみて、はじめてわかるものです。

 あなたは、それをしましたか。

 力のかぎり努力もしないうちから、
 自分はだめだと思うのは、たいへんはずかしいことですよ。

 それに、あやまちは、だれにでもあるものです。

 あやまちをおかさない人間なんて、ひとりもいません。
 あやまちをおかしたら、あやまって改めればよいのです。
 あやまちを改めないことこそ、本当のあやまちですよ。」



耳をかたむけていた男の目から、
ひとすじのなみだがこぼれました。



男が、このときの老人が、
孔子だったことを知ったのは、それからずっと後のことでした。





孔子の誕生

孔子は、中国の魯(ろ)という国で生まれました。
紀元前551年、いまから約2500年まえのことです。



父は、戦争でなんどもてがらをたてた勇かんな武士でした。
母は、争いごとをにくむ、気だてのやさしい人でした。



孔子が生まれたとき、父も母も、すこしびっくりしました。



赤んぼうの頭のまん中がぽこんとくぼみ、
まわりが丘のようになっていたのです。



「この子は、いまに、りっぱな人に育つぞ。」



お祝いにきた人びとは、
赤んぼうのふしぎな頭を見て、みんなこう言いました。



それから3年めに父は亡くなり、
幼い孔子は、母の手ひとつで育てられることになってしまいました。





子どものころからすきだった学問

生涯を、人の生きかたや国のおさめかたを考えることにつくした孔子は、
学校に入るまえから、自分は学問の道に進むことを心に決めていました。



武士の子だというのに、
子どものころから活発なあそびにはほとんど見向きもしないで、
おとなたちが神にそなえものをささげたり、
おたがいにあいさつをかわしたりするのをまねして、
礼儀作法を学んですごすことのほうがおおかったということです。



学校へは、13歳のころから行き始めました。



学校といっても、
村の年よりたちが、むかしから伝わっていることや、
祖先を祭ることや、人間として守らなければならないことなどを、
話して聞かせるだけのものでした。



紙が発明される約600年もまえのことですから、もちろん、教科書などありませんでした。



「あの子は、ほんとうに、ものおぼえのよい子だ。
 でも、わからないことがあると、しくこく聞かれるのには、まったくかなわないよ。」



村の人びとは、孔子が近よってくると逃げだしました。
しかし、ねっしんさには、だれもが関心していました。



17歳のとき、役人になりました。
はじめは倉庫係、そのつぎは牛や馬のせわをする役でした。



「どんな仕事にも価値がある。
 人間は、心がけひとつで、どんなことからでも学ぶことができる。」



このように信じていた孔子は、
人がいやがる仕事でも、しんけんにはたらきました。



少しでもわからないことがあれば、どんな人にも頭をさげて教わりました。
孔子には、まわりの人たちみんなが先生でした。
だれからでも、なにかを学ぶことができたからです。



「朝に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可(か)なり」



この有名なことばのとおり、
孔子は、朝、なにかを学んでほんとうのことを知ることができたら、
夕方には、もう死んでもかまわない、というほどに、学ぶことを大切にしました。



そのかいがあって、20歳のころから、
いつのまにか自分が村の人たちに教えるようになり、
やがて3年もすると、たくさんの弟子もできていました。



どんなに学問ができても、
けっして自慢することのない孔子を、周りの人たちが心からしたうようになったからです。



ところが24歳になったある日、悲しいことがおとずれました。
母が亡くなってしまったのです。



親孝行は、親をやしないさえすればよいものではない。
 親をうやまう気持ちがなければ、
 どんなにぜいたくをさせてあげても、それは孝行とはいえない。」



いつもこう思っていた孔子は、
心から尊敬していた母を失ったのを悲しみ、
人よりも大きなからだをふるわせて泣きました。



孔子は、のちにどんなにえらくなっても、
人のためにほんとうに悲しむときは、
いつのまにか、大きな声で泣いてしまうことがありました。



人の悲しみには、いつも一緒になって、涙をながしたのです。





人の気持ちを考えるやさしい心

孔子は、36歳のとき、
国をにげだした君主のあとを追って、となりの斉(せい)の国へわたりました。



魯(ろ)の政治が、
力で国をおさめようとする貴族たちによって、みだされてしまったからです。



孔子は、人の正しい道をふみはずした争いごとはきらいでした。
しかし、争いや暴力を、ただおそれたのではありません。



ある日、武芸じまんの男がやってきたときのことです。



「孔子は、口ではえらそうなことをいっているが、どきょうなどないにちがいない。
 ひとつ、おどかしてやろう。」



男は、剣をぬき、まるで孔子にきりかかるようにして、舞いを始めました。
剣の先は、孔子の胸に突きささらんばかりです。



ところが、孔子は、へいぜんとしています。
孔子には、男がからいばりをしていることが、初めからわかっていました。



自分の身をほんとうに守ることができるものは、他人への愛だ。
 愛の心にみちているものには、剣などこわくはない。
 どんなときにも、剣は必要ないのだ。」



孔子は、しずかに、男に語りかけました。
すると男は、おどるのをやめてひざまずき、その場で剣をすてて弟子になりました。



生涯をとおして、
孔子が、もっともたいせつにしたことばは「仁」です。


いろいろな人びとから、問われました。



「仁とは、どんなことですか?」



すると、孔子は、やさしい目をして答えました。



「仁とは、人を愛することだ。

 人を愛することを知れば、
 自分のいいたいことを主張するときも、人の立場を考えることができるようになる。」



孔子は、人とまじわるときは人の気持ちをたいせつにしました。



だから、たくさんの政治家から、
国をおさめるために、いちばんたいせつなことは何か、と聞かれたときは、
国民をだいじにすることだ、と答えました。



火事で、孔子がかわいがっていた馬が焼け死んだことがありました。



このとき孔子は、
馬を助けられなかったことをわびる弟子たちに、
だれかけがをしたものはいないか、とたずねました。



そして、みんなが無事だったことを知ると、
それはよかった、といって、馬のことはひとことも口にしませんでした。



孔子は、焼け死んだ馬など、どうでもよいと思ったのではありません。



馬には火事で死なせたことを心のなかでわびをいい、
あとは、弟子たちのからだのことだけを心配したのです。





学校を建て、のちには大臣に

数年たって斉(せい)から魯(ろ)へもどると、孔子は、学校をつくりました。
いまでいえば、私立学校です。



古くから学問が発達していた中国には、
そのころすでに国がつくった大学がありました。



しかし、その大学へ入れるのは、身分の高い貴族だけにかぎられていました。



そこで孔子は、だれでも入学できる、だれでも学べる学校を建てたのです。



孔子は、入学してきた人びとには、
わけへだてなく、これまで貴族しか学べなかった学問を教えました。



とくに、人間が心ゆたかに生きていくうえで必要なことや、
社会で守らなければならないことを、深く教えました。



「かりに、人間の知能に生まれつきの差があっても、
 心のやさしい人間らしい人間になることは、だれにでもできる。

 また、人に尊敬される人間になることもできる。」



孔子は、このように信じて、ひとりでもおおく、
人間としてりっぱな人になってもらうことをねがい、
できるだけたくさんの人たちと学ぼうとしたのです。



やがて、町長から魯(ろ)の国の大臣にまでなった孔子は、
正しい政治のためにも力をつくしました。



このころの中国で、
貴族でもないものが、大臣になるようなことは、ほんとうは考えられないことでした。



ところが、
みだれていた町をりっぱにおさめたことが国じゅうで評判になり、
貴族たちが、孔子に国のおさめかたを学ぶようになったのです。



法律やきびしい規則だけで、人びとをしたがわせようとしても、国はよくならない。

 それよりも、人びとに、
 正しい考えで正しい行動をしてもらうようにすることのほうが、たいせつだ。

 そのかわり、命令をくだす政治家自身が正しくなければ、
 国民は、けっして、いうことをきかない」



孔子は、こんなことを、政治家たちに説きつづけました。



このころの中国は春秋時代(しゅんじゅうじだい)とよばれ、
どこの国でも武力中心の政治がおこなわれて、国がみだれていました。



だから孔子は、国を栄えさせるために、
まず国を平和にしなければいけない、と考えたのです。



ところが、思いがけないことが起こりました。



魯(ろ)の国が発展していくことをおそれた斉国(せいこく)が、
孔子を追い出して、魯をみだれさせようと、たくらんだのです。



斉国は、きれいな女の芸人を魯の国にたくさんおくりこみ、
魯の大臣たちに、孔子の意見には耳をかたむけないようにいわせました。



すると、魯の国の政治はたちまちみだれ始め、
孔子は、ついに、ふたたび国を逃げださなければならないように、なってしまいました。



孔子は、弟子たちをつれて、それから14年にもわたる長い旅にでました。





世の中に正しいことを

54歳にもなってからの旅は、孔子には、たいへんつらいものでした。



戦争に勝つことばかりを考えている世のなかでは、
孔子を、あたたかく迎えてくれる国はなかったからです。



それどころか、
孔子の意見を聞いて平和な政治がおこなわれては困るというので、
孔子と弟子たちを殺してしまおうというものさえ、あらわれました。



しかし、孔子は、どんなときにもあわてませんでした。



「君子にだって、だれにだって、困りはててしまうことはあるものだ。

 でも、そのとき、あわてるか、あわてないかが、
 人間ができていないものと、君子(くんし)とのちがいだ。」



孔子は、
強い信念をもつことを弟子たちに教えながら、国ぐにをまわりました。



あるところで、
よごれきった世のなかをすて、山のなかでひっそりくらしている老人にあいました。



すると孔子は、めずらしくおこったような口ぶりでいいました。



「いやな世のなかからにげて、
 自分ひとりが正しい道を進むのはむずかしいことではない。

 むずかしいのは、正しいと思うことを、世のなかに広めていくことだ。」



孔子は、いくつになっても、
人びとのために、いっしょうけんめいに生きつづけようと考えました。



どんなに年をとっても、一歩一歩前に進むことを忘れませんでした。



また、自分が生きているあいだに、
いっぺんに世のなかをよくすることなど、できるはずがないということも知っていました。



だから、弟子たちにおおくのことを教え、
弟子たちが、つぎの世のなかをよくしてくれることをねがいました。





日本人にも広く読まれた「論語」

孔子は、紀元前479年に72歳で、学問にうちこんだ生涯を終えました。



弟子たちの数は3000人を超えていたといわれ、
孔子の教えは、その弟子たちによって、のちの世に受けつがれました。



孔子の教えにはじまった儒教は、
そのご長いあいだ、中国の政治や学問のなかでたいせつにされ、
弟子たちが孔子の教えをまとめた『論語』は、日本人にも広く読まれてきました。



「すぐれた人は、いつも、まず正しいことを考える。
 心のまずしい人は、いつも、利益だけを考えて行動する。」



「すぐれた人は、失敗すると、まず、自分を反省する。
 心のまずしい人は、なんでも、人の責任にしてしまう。」



孔子が、いまも偉人としてあおがれるのは、
その言葉のなかに、いつになってもかわらない真理が秘められているからです。





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孔子
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